家族という身体

澤井繁男『鬼面・刺繍』(鳥影社、二〇一〇年)書評

初出=『書評』136(関大生協『書評』編集委員会、2011年10月): 201-205

門林岳史




フランスの文化人類学者クロード・レヴィ゠ストロースがその長いキャリアの晩年にあたる一九九三年に発表した小文に「われらみな食人種(ルビ:カニバル)」というものがある(一)。この挑発的なタイトルのエッセイでレヴィ゠ストロースが主張しているのは、およそ次のようなことである。すなわち、まず一方で彼は、ニューギニア内陸部で一九五〇年代に発見されたクールーと呼ばれる中枢神経系を侵すウイルス性の病について述べる。民族学者たちの仮説によれば、この地の人々のあいだには近しい死者の肉を食すカニバリズム(食人)の風習があり、クール—の伝染はこの習慣に際して死者の感染した脳を扱うことによって仲立ちされていた可能性があると言うのである。他方で彼は、クロイツフェルト・ヤコブ病というクールーと同種の病についても言及する。この病が、脳下垂体から抽出したホルモンの注射や脳髄に由来する膜の移植といった医療行為によって伝染しうる、という問題が当時ジャーナリズムを騒がしていたのだ。この二つの事例は、感染した脳の一部を体内に摂取することで伝染する、という点で共通しており、この点において、忌避されるべき野蛮な風習と文明国の高度な医療行為のあいだに本質的な違いはない。かくして、カニバリズムという概念が、西洋文明の側から他文化を眼差し、それを野蛮な風習や迷信としてみずからと区別するためのものであるならば、「それは自民族中心主義的なカテゴリーであり、カニバリズムを禁じる社会にとってのみ存在する」(二五三頁)。そのようにレヴィ゠ストロースは看破するのだ。ひるがえって、カニバリズムという事象をありのままに捉えて、「他人の身体に由来する部分や物質を、自分の意思によって、人間の身体の中に導き入れる」(二五四頁)こととして理解すると、それは野蛮か文明かに拘わらず幅広く見られる事象であり、「わたしたちのもとにもカニバリズムは存在する」(同上)ということになる。

科学的な知に根ざした高度な医療行為のうちに、人の肉を喰らうというおぞましいイメージを喚起させるこうしたレヴィ゠ストロースの着想に思い当たったのは、澤井繁男『鬼面・刺繍』を読んでいて、次の言葉に目がとまったからである。

「ぼくたちは臓器を食べて生きているのです。だから、臆せず臓器をもらえ、です」(一一八頁)

この台詞は、『鬼面・刺繍』に収められた二篇のうち、「刺繍」と題されたほうの短編中、腎臓を患い透析に通う主人公が主治医に移植について相談をするくだりで、主治医の言葉として登場する。もちろん、わたしたちが動物の肉を、そして臓器を食べて生きているからといって、それはみずからと同種である人間の臓器を体内に摂取することとは別の事柄である。けれども、この論理の飛躍が一挙にたぐり寄せる生々しい感覚には、上に紹介したレヴィ゠ストロースの着想と同根の洞察がある。そして、それぞれに家族間の腎臓移植を主題とする『鬼面・刺繍』の二篇は、近しい他者の一部を体内に同化するという経験に宿るこうした感覚的な次元を描き出すことをその主たる目的としているように思われるのだ。

作家であると同時にイタリア・ルネサンス文化の研究者でもある澤井繁男は、自身、人工透析・腹膜透析と腎臓移植の経験を持つ。『腎臓放浪記——臓器移植者からみた「いのち」のかたち』(平凡社新書、二〇〇五年)は、そうした経験から臓器移植の問題へと切り込んだエッセイ集であるが、この本で彼は、臓器移植の問題を考えるにあたって、哲学的に抽象化された生命倫理や身体論の構図を持ち込もうとする傾向を批判している。そのような議論は、生体や脳死体からの移植の是非を問うたり、人間の身体を交換可能な部品のように捉えることの問題を論究したりするものの、概して臓器移植という事象を手術の瞬間という地点で捉えており、当の臓器移植者が移植前から移植後にわたる長い時間の経過をどのように生きているのか、そのリアリティを捉えそこなっている、と言うのである。

『鬼面・刺繍』に収められた二つの短編は、こうした澤井の立場を小説という形式で表明したものと言ってよい。「鬼面」では、妻から腎臓移植を受けた主人公が、移植後に別の女性と恋仲になり、その不倫が妻に発覚する顛末が、主人公の視点から描かれる。他方、「刺繍」は父から移植を受けた息子の話である。交通事故で腎臓を痛め、透析生活に入った主人公は、父からの申し入れを受けて腎臓移植を決意し、そして移植後、免疫抑制剤の副作用による鬱状態を乗り越えていく。その過程で父と息子がそれぞれ何を経験し、何を考え、感じとり、どのように行動してきたのか。それが、移植から二十数年後に主人公が父の再婚相手と交わす書簡というかたちで綴られていく。

書簡体小説という体裁は、結果として「刺繍」にどこか哲学的な対話編のような趣を与えることになった。長い年月を経て過去が振り返られる、という表現上の効果も手伝ってか、登場人物たちの経験や思念は、いくぶんか理知的な反省作用を帯びて描写されているように感じられるのだ。それらは実際のところ、かなりの部分まで澤井自身の経験と見解なのであろう。そして、そのようなかたちで表明される澤井の考え、あるいはむしろ思想的な気分のようなものは、虚構の登場人物たちに託されて語られるがゆえに、よりいっそう純粋なかたちで表現を得ているように思われるのだ。

そうした気分の根底にあるのが、他者の臓器を体内に同化する経験の生々しさではないか。けれどもこのカニバリズムは、人類が文明の発展とともに抑圧し忘却した衝動を回帰させるから生々しい、というだけのことではない。臓器移植のカニバリズムは、テクノロジーという衣をまとって現れる。臓器移植によって他者を同化することは、薬物の服用や定期的な検査などによって身体を技術的なコントロール下に置くこと、すなわち、みずからの身体をテクノロジーに同化させ、適合させていくことをも意味しているのである。そのことによって立ち現れてくるのは、純粋に有機的な現象としての身体——薬物の服用や血液の透析によって生命活動を続行したりも停止したりもする有機物としての肉体——である。そして、例えばステロイド剤の副作用でふくれあがった顔や、薬の服用を怠った結果の血尿を描写する澤井の筆が、肉の温度と血の臭いをともなって読者に訴えかけてくるのは、こうした生の肉体の次元に直に触れているからである。

上述したようにいくぶんか理知的な装いのある「刺繍」と比べて、一貫して主人公の思考と行動に焦点を合わせて描写される「鬼面」において、体内に宿した妻の臓器はいっそうなまめかしい。腎臓移植を受けた後の主人公にとって、妻の存在とは、「嫌いではないが、荷物を背負わされてすでに素直に愛せなくなってしまった女」(二二頁)である。その結果、別の女性に心を寄せ始め、「移植を受けた人間に聖者を強いられても困る」(六四頁)と開き直る主人公であるが、その関係に妻が勘づくのと前後して、移植された妻の腎臓も主人公の身体に対して拒絶反応を示し始める。血尿を見て早晩移植腎を摘出せざるをえなくなることを覚悟する主人公に、妻はあげた臓器を返せと迫る。そんなことを医者が認めるわけがないと抗弁する主人公に妻はさらに追い打ちをかける。

「じゃ、私のところへ帰ってきて」
「ちゃんと毎日帰っているだろうが」
「心も」
「心もだよ」
「いっしょに病院に行きましょ。わたし本気だから」(六一頁)

妻の思考を支配する隠喩連関において、臓器の贈与は愛情の贈与と分かちがたく結びつけられているのである。ひるがえって、主人公が思いを寄せる浮気相手にとってもまた、主人公の心と身体は切り離しえない。妻と一緒にいる主人公の姿を目撃した彼女は、主人公にこう訴えかけるのだ。「移植前のあなたがいい。あなたのからだがあなただけでできあがっている、そういう昭吾さんが」(六七頁)。

二人の女性に対してどっちつかずの態度をとり続けてきたつけは、身体の変調という具体性をともなって主人公に差し迫る。妻の殺気だった訴えは、その意思をくみ取ったかのような移植腎の拒絶反応をともなって主人公に突きつけられるのである。結果、彼の肉体は腐爛臭を帯び始める。「なんとうとましいことか。肉体にくっついている心が薄よごれてくると、全身もくさってくる」(六八頁)。けれども、本作品が構築している比喩連関のなかでこの腐爛臭が差し戻しているのは、そもそも主人公が妻と暮らしてきた部屋の匂いなのである。

読者を物語世界へと導き入れる序盤の叙述のなかに、妻がすっかり家事を放棄してしまった結果、荒れ放題の部屋の様子を丹念に描写するくだりがある。廊下に散乱する汚れた衣服、流しに山積みになった食器類。それらが放つ腐爛臭のなかに戻ってくることは、主人公にとって、妻の体内に入っていくことにも等しい。妻の存在は、匂いに媒介されて部屋全体へと拡張されているのだ。みずからの身体が同じ匂いを帯び始めたいまや、主人公は、体内に埋め込まれた妻の存在がみずからの肉体を浸食し汚染し始めていることを知る。こうした叙述において、臓器は単なる肉の塊であるにとどまらない。主人公に切迫してきているのは、愛憎をはらんだ人間関係にまで拡張された身体性の次元なのである。レヴィ゠ストロースが言及したカニバリズムの風習において、近しい死者の肉がその魂と分かちがたく結びついていたのと同じ身体の次元が、作中の人物たちを支配している。『鬼面・刺繍』の叙述が専心しているのは、家族間臓器移植がはらむこの身体の次元、いわば「家族という身体」なのだ(二)。



(一)クロード・レヴィ゠ストロース「われらみな食人種(ルビ:カニバル)」泉克典訳『思想』二〇〇八年第一二号、二四八—五四頁。この論考はイタリアの日刊紙『ラ・レプーブリカ』に一九九三年一〇月一〇日付けで掲載された。

(二)「家族という身体」という着想は、下記のインタビューにおける市野川容孝の提起から借用した。春木繁一(聞き手=市野川容孝)「移植医療と「家族という身体」」『身体をめぐるレッスン4——交錯する身体』市野川容孝編、岩波書店、二〇〇七年、一九九—二二七頁。


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